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白山浦界隈まち歩きと新潟電気の物語(深澤一彦氏より投稿)

2015/03/07

 平成26年夏、中央公民館の丸山夕香さんを通じ、鏡渕小学校区コミュニティ協議会から、白山浦界隈まち歩きの申し入れがありました。事前の打ち合わせの際、相手様から地域マップの作成を目的に鏡渕小学校区とその周辺を対象とし、そのエリア内のジャンル別のポイント表が渡され、1時間30分程度の2コース設定と、それぞれのコースの中に複数のポイントを取り込むことが条件として依頼された。
 白山浦生まれの私としてはそれ程難しくはない仕事と引き受けたところ、主要ポイントの中に「元発電所の島」という項目に行き止まりました。子供の頃に話は聞いていましたが、それがどこか、どんなものだったのか全くわからないため、お盆返上の勉強となるとは思いませんでした。
 結果、明治中期に新潟市で初めて電灯の明かりが点る元となった、火力発電所がこの白山浦に存在したことでした。白山浦通り(後の電車通り)南側裏に平行に堀(川)が流れ、反対側は信濃川に添った細長い島があり、上手は商業高校通り附近を先端に下手は宮浦堀まで続き、おおよそ江戸時代後期に付いた中州とも言われた島と堀、いずれも公式な名前はなく、ここに明治30年「新潟電灯会社」が設立され、石炭焚きボイラーによる発電機1基をもって翌31年に市内、632灯の電灯が点された歴史が判りました。
 当時、電気料金は高額で役所や裕福な大店だけでしたが、その後、需要家の増加につれ明治34年に発電機をもう1基増設し、市内配電を続けました。やがて明治40年代になると水力発電の時代となり、新潟電灯会社も近郊の発電所の買収を巡り別々に分かれることになり、新潟電灯系の「新潟水電会社(後の新潟電気会社)」と新たな「新潟水力会社」の二社となり、新潟市内と沼垂町に於いて、明治42年から大正12年までの間、熾烈な戦いが展開された。具体的には市中電柱送電系路二社併列(道の両側)で、電気料金の値引き・灯数サービス・謝礼金等過当競争が続いたが、大正13年両社間で営業不可侵協定が結ばれ終結となりました。
 ここで話は変わりますが、ガイドになってから古い市街写真を何枚か見る度に疑問を持ってきたことが今回の勉強の過程で目から鱗となりました。それは市中の電柱の腕木と電線の多さ、それと信濃川の萬代橋下流側と県会議事堂前の大型送電鉄塔の意味が、上記電気会社二社間の過当競争の結果と納得できました。理由については紙面の都合により省略します。
 さて、話を戻しますが、大正末から昭和初期にかけて世界的金融恐慌の大不況時代に遭遇し、設立以来二社共合併、買収を重ね規模拡大を図るとともに近隣県を含め電源開発に力を注いできたが、遠距離送電から大送電網の過渡期を迎え、大手「東京電灯会社(後の東京電力)」の新潟県下配電支配に対抗するため、新潟水電会社改め「新潟電気会社」と「新潟水力電気会社」の両社とも統合の必要性が生じ、昭和5年に合併し「新潟電力会社」となり以後戦中時代へと突入し、遂に軍事産業優先の国家電力統制令の下、昭和17年全国を9ブロックに分けた「東北配電会社」に新潟県の電気事業者の一つとして新潟電力会社も統合に組み込まれ、それが戦後の電力配電の再編成となって昭和26年に「東北電力会社」となり、現在の「東北電力新潟支店」が誕生となりました。
 以上のことが新潟市に於ける電気の物語についての大筋の話となりますが、最初に出てきた堀と島はその後どうなったでしょうか。昭和2年に大河津分水完成に伴い昭和4年から新潟市は信濃川下流域両岸の埋め立て事業が開始された。最初の埋め立ては一番掘県会議事堂から萬代橋上手側の両岸、昭和9年から右岸の下所島、左岸の白山公園南側、同12年には白山新公園となりました。昭和14年から右岸の上所島と出来島間、左岸の新公園から上手白山浦から関屋間が埋立てられたのを期に堀と島の痕跡がなくなり以後現在は川岸町一帯となっております。
 さて、冒頭のまち歩きについてはコースの一部に関屋地区が含まれていた関係から関屋生まれの福山氏にお願いし、9月17日(水)15時から2人で17名を無事ガイド致しました。ひょんなことから今まで知らなかったことが身近な市街地で歴史的価値に触れることができ、鏡渕小学校区コミュニティ協議会に感謝するとともに、白山エリアの新しいコースができそうですのでお楽しみに。
平成26年11月11日
深澤一彦

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